- 明治学院大学ラグビー部 トップ
- mgurfchistory
history
明治学院大学体育会ラグビー部 80年の歩み (~2007年)
昭和4年 初めてのジャージ 現在
1928年~1937年 (昭和3年~12年) 昭和3年、当時2年生でラグビー好きであった、故水谷力、故鈴木茂氏が中心となって創立、翌昭和4年に正式に認可。 創立者達が卒業して一時低迷をしたが7・8年頃には幹部達が創意工夫で部員数を増やし、最盛期には50名を超えた。 ついつい大学生活を一年又は一年と伸ばす先輩たちが輩出した頃でもあった。 |
1938年~1947年 (昭和13年~22年) 14年、時の主将島崎健、従来真迄の伝聞継承を廃し“明治学院ラグビー蹴球部記録帳”を創設、以後昭和19年5月1日迄の詳細を告げている。 同じく14年、初の名古屋遠征。戦績2勝1敗、16年。創立以来続いた夏合宿は文部陸軍両省の通達で中止。 同年12月、3年生は繰り上げ卒業。 18年11月。都内より学徒出陣者6名送る。 昭和20年、戦争の終結時の混乱期にも拘わらず、部活動は続けられる。 |
1948年~1957年 (昭和23年~32年) 23年、ラグビー部部長に工藤英一教授を迎え、公私にわたり両面の指導を戴く。24年、物資不足で備品の調達もままならぬ中で史上最良の成績を上げる。 25年、全国大学ラグビーフットボール大会の制度が設立。早速参加するも、実力はまだまだ、以後の目標はこの大会に。 28年・29年出野辺氏(早大OB)、32年曽根氏(明治OB)にコーチをお願いし、以後35年シーズン終了迄ご指導戴き、戦績共に大きな成果があった。 |
1958年~1967年(昭和33年~42年) 曽根コーチの下に、つらくて長い練習が続く。その大半は基礎訓練の繰り返し。部員は良くその練習に耐え、結果34年創立30年にして初の全国大会 関東代表となる。 以後連続4年間関東代表として名古屋瑞穂ラグビー場へ出場。 37年、渡辺氏(明大OB)コーチ就任、38年~40年にかけてはいずれも惜しくも関東代表の座を逃がす。 38年に初代監督に三谷氏(11年卒)、41年菊地氏(19年卒)が就任。 |
1968年~1977年(昭和43年~52年) 関東代表の座をはなれてしばらく低迷を続ける中で、45年地区予選のグループ別リーグ戦に優勝。 成城大学と対戦するも敗退。47・48年鈴木氏(32年卒)、50・51年飯島氏(26年卒)、52年毎木氏(36年卒)の各監督の指導をいただく、部員数も少なくなったが良く目の行き届いた指導で地道に実力を上げていく。この間44年、女子の入部希望者数名ありこれを認める。 52年、創立50周年記念を挙行。 |
1978年~1987年 (昭和53年~62年) 53年、関東対抗戦グループへ準加盟。 上級生、下級生と一体となったチームができあがりつつあり、毎年全国地区対抗大学の東京地区予選のブロック優勝を果たすも決勝トーナメントで涙をのむ。 しかしその悔しい思いをした若手OBが積極的に現役を鍛え、56年東京地区で準々優勝、57年東京地区準優勝、58年東京地区優勝をする。 60年、対抗戦グループに正式に加盟。 壁は厚く1勝6敗。 61年、1勝7敗。 62年、4勝3敗。 |
1988年~1997年 (昭和63年~平成9年) この10年の戦力の変動は部員数の減少と共にまさに“天”と“地”の思いを味わう。 関東大学ラグビー対抗戦グループに正式加盟して4年目を迎えたが、上位校(明治・日体・手帝京)の壁は揺るがず善戦するも勝ち星に恵まれずにおわる。試合数も不規則で公式戦は4試合~7試合を推移し常に3勝は確保していたが、平成7~9年は不本意な戦績であった。この間、平成7年には創立初の海外遠征として北京で行われた「ライスカンカップ」に参加し優勝を飾った。 また東村山の専用グラウンドを失い戸塚共有グラウンドに変わった。 |
1998年~2007年 (平成10年~19年) 「苦闘」と「チャレンジ」の10年。関東大学対抗戦BグループにおいてAグループ昇格を目指すも最高位は2003年と2005年の3位、入れ替え戦にも届かず苦闘が続く。 2005年4月に「明学スポーツを強くするプロジェクト(通称スポーツプロジェクト)」が発足。ラグビー部が強化クラブに選定される。大学・クラブ一体となった更なる強化を始動。 2007年4月横浜校舎グラウンドが全天候型グラウンド(人工芝)「ヘボンフィールド」として生まれ変わり、その杮落し記念試合として明治大学と対戦。新たな明学ラグビー部の歴史の1ページを刻んだ。 |